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人生を振り返ってみる 妊活~妊娠~出産


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人生を振り返ってみる 31歳~35歳 妊活~妊娠~出産
 
子供が欲しい 妊活~出産まで
 
30代後半にさしかかる所で、出産という経験をした。
子供が欲しいと思ってもなかなかできず、子供ができるまでの
数年間、どうやったら子供ができるのかを毎日毎日考え、調べたりしていた。
これはこれでけっこうストレスフルな毎日だった。
でも妥協せず、あきらめずに続けた結果、子供に巡り会えた。
根気強く待つ、ということを学んだ。
 

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目次
 

予想外の妊娠

 

私の転職先も決まり、ダンナのアルバイトも決まった。

そんな矢先、私の妊娠が発覚。

思いもよらない展開。。。

これから転職する、という状況で子供ができた。

これからのことが不安ではあったが、このタイミングでやってきた

こうのとり。不安は全くなかった、とはいえないけど嬉しさの方が先にたった。

というのも、子供が欲しいと思ってからできるまで3年近くかかったからだ。

私たちには計画的に子供を作れない事情があったから。

 

な~んにもない私達

 

結婚式もなし、写真も撮ってないし結婚指輪もなし、なんにもなかった。

結婚の報告の両親にはしていない。

婚姻届けを出したその日に、東京のゲストハウスで一緒だった

ダンナのフランス人の友人に祝ってもらった。

出席者一人だけの結婚パーティー

そんな状況だったので、もちろんすぐに子供を欲しいなんていえる状況ではなかった。

「いつかほしいね」という話をしつつ、結婚して3年過ぎていた。

当時私は31歳。

 

会社の同僚の妊娠が発覚した。

同僚もダンナさんが自営業でそんなにお金に余裕があるわけじゃない、と。

それでも子供ができて、「できちゃえばなんとかなるもんだよ」と。

 同僚の妊娠をきっかけに、私達も子供を作ろうという話になった。

男性不妊発覚~妊娠まで

1年間、 子供ができなかった。

 調べてみると・・・ダンナの男性不妊が判明。

妊娠できる精子の運動率と数が20分の1。

一番最初の検査で、いきなり顕微鏡受診をすすめられた。

もともと胎外受精、顕微鏡受診は望んでいなかった私達。

経済的な理由も勿論あったけど、自然にできないのであればそれまで。

クリニックの帰り道。

「夫婦2人で生きていくのもいいね」とダンナを励ました。

 

それでも、ちゃんと検査をしてみないと分からない!

やれることはやろう、とダンナの詳しい検査をするためにクリニックを予約。

詳しく調べてもらうと、男性不妊患者の40パーセント以上に認められる精索静脈瘤という病気だということが判明。

 

手術すれば改善する可能性はある、とのこと。

手術のできる近い病院を早速探して、検査予約。

1回目の検査で、言葉の問題があるから手術はできないと断られそうになった。

 

1回目の検査で精子の数はほぼ0。

2回目の検査、ほぼ変化なし。

3回目の検査で、精子の数が手術すれば改善する見込みがある数まで増えた。

 

私達は気分転換をするため、広島旅行へ出かけた。

とりあえず、牡蠣がいいと聞いたので、牡蠣を食べまくった。

旅行で気分転換できたのがよかったのか

3回目の検査で、いい結果がでて手術してもらえることになった。

 

何の幸運か、手術に付き添う看護師さんの中に

ダンナさんがフランス人、だという看護師さんがいたのだ。

なんと、手術の内容やり方の説明書をすべてフランス語に訳してくれたのだ。

これを仕事以外の時間外に作ってくれたのだろう。

本当に感謝しかない。

 

コミュニケーションがとれないと困る、ということで

私も手術に付き添うことになった。

モニターを見ながらの手術。

人の手術に付き添うことはこれで最初で最後にしてほしい。。

音楽をかけながらの手術。

終始和やかな雰囲気だった。

 

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手術して1年後、私の妊娠が発覚。

喜びもつかの間、8週間過ぎた所で流産。

子宮をえぐりとられるいるのか、と思う位お腹が痛くて

痛すぎて記憶が飛びそうだった。天井がぐるぐる回っていた。

ダンナが帰ってきて、歩いて病院へ。

自分に何が起こったのか、分かってはいた。

モニターに映った自分のからっぽになった子宮。

自然流産。自然淘汰

今までに感じた事のない何とも表現しがたい悲しみがこみあげてきた。

ほしくてやっと授かったベイビー。

術後、数日会社を休んだ、食中毒になったと嘘をついて。

 

流産を経験した事で、何が一番大事かというのを改めて考えなおした。

モヤモヤしたものが消え、前に進む後押しをしてもらえた様な気がする。

 

流産後の妊活

 

流産したことは自然淘汰だから仕方ない、と割とすぐにふっきれた。

流産した後は妊娠しやすい、というのを聞いて妊活を頑張った。

流産後、一度産婦人科を受診しタイミング療法と漢方薬を飲んでみた。

これがよかったかどうかは分からないが、流産して3カ月目に赤ちゃんを授かる事ができた。

妊娠がわかる少し前にダンナも私も退職届けを出していた。

もしかしたら、辞めると決めたことでストレスがなくなったのがよかったのかもしれない。

また、流れてしまうんじゃないか、という不安は安定期に入るまで続いた。

 

親への報告

 

子供をできた事をまず、母親に告げた。

父親には直接伝えてはいない。

「もう、家族の縁を切る!」とまで言われ、なかば家出状態になっていた

私と両親の関係。

父親には「そんな状態で子供なんて産んだってどうするんだ!」と言われた様な気がする。

「あぁ、確かそんなことも言われた」と今思い出した。

 

里帰り出産

 35歳で一人目を出産した。

臨月まで、何事もなく妊娠を継続できた。

この頃、母親とはだいぶ和解していてたまに野菜を送ってくれたりしてくれていた。

出産は実家に里帰り出産することにした。

予定を過ぎてもなかなか出てこなくて、10日遅れて促進剤を使ってやっと出てきた。

ダンナは私が入院する日に合わせて来てくれてゲストハウスに泊まりながら

私の出産のタイミングを待ってくれていた。

通常なら、私の実家に滞在するところだが父親との関係がまだ微妙だったので

ゲストハウスの方が気が楽だから、とゲストハウスに宿泊していた。

 

父親の反応

 

出産してから、病院に一度だけ水を届けに父親が来てくれた。

でも初孫の顔を一瞬だけちらりと見て帰ってしまった。

実家には出産後2カ月間お世話になった。

1カ月目、父親は孫に近ずこうともせず遠目で見ていた。

2カ月目、母親が「抱いてみたら」と父親に促してようやく初孫を抱いてくれた。

それからは、孫に話かけたりあやしたりしてくれた。

この頃から少しだけ、父親とダンナも話す様になった。

私達が帰る前にお宮参りもしてくれた。

 

結婚式もしていないので、親戚も私が結婚していること、子供が産まれたことは

誰一人として知らなかった。

むしろ、両親は知られたくないから電話がかかってきたら

孫が泣いている声を聞こえない様にしていた。

出産といえば、みんなにお祝いしてもらえる喜ばしいことなのに

誰にも言えないし、隠されていることが少し悲しかった。

 

でもやっと産まれてきてくれた新しい命。

これから3人でやっていく、という新たな決意がうまれた。

新しい家族が増えて、私の優先順位は家族になった。

 

                                続・・・・・