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人生を振り返ってみる 30代


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人生を振り返ってみる 30代
 

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別れ道
目次

 

30歳 結婚 

正確にいうと三十路直前に結婚した

結婚という華やかなイメージのものではなく、いそいそと婚姻届けを出して

とりあえずダンナの配偶者ビザをとった、という表現の方があっている。

 

いきなり、何の音沙汰もなく突然やってきた今のダンナ。

安いチケットがとれたから、という理由でこちらの都合などおかまいなしに

やってきた。

しばらく東京のゲストハウスに身をよせるとのこと。

当時私は短期で冬のアルバイトをしていたし、アルバイトの契約が終わったら

しばらくは都心へ出る予定はなかった。

 

「今結婚するか、しないか決めて」 

観光ビザできたダンナ。結婚しなかったら帰ることになる。

何このせっぱつまった感じは・・・・

結婚て確か、人生で割と重要なものじゃなかったっけ!?

「今日、一緒にごはんいく?どうする?」 みたいなノリ。

いや、もうちょっと深刻か、

「この船に乗りますか?乗りませんか?」船の船員さんが私の手をとろうとしている、

そういう状況だった。

えぃ!乗ってしまえ!!」

この船に乗って辿り着く未知の未来を見てみたくなったのだ。

勢いで乗ってしまったのだ。もう後には戻れない。

結婚は相手の人生も背負う、ということをこの時はまだ知らなかった。

 

親の反対

 

親に反対されていた外国人との結婚。

父親は公務員と結婚し安定した生活を送ることが幸せだ、という考えの人。

日本に帰国する前に一度、ダンナを紹介するために一緒に日本に帰国したことがある。

 父親はダンナと目も合わせないし、ダンナが持ってきたお土産のワインも

突き返した。

今でもこの時の父親のダンナに対する態度を思い返すと辛い。

相手がどんな人かも知ろうとせず、ただ頭ごなしに突き返す態度に

本当に悲しくなった。同じ人間なのに。。

(親になって、初めてこの時の親の気持ちも少しわかる・・・)

 

親に反対されていたけど、もう乗りかかった船は海に出てしまっているので

後には引き返せない。

親に結婚の承諾をせずに婚姻届けを出した。

自分でもかなり強行手段だったかなと思う。

母親は私の戸籍をとった時に偶然、私達が結婚していたことを知ってしまった。

父親は黙認していたのだろうか(いつか聞いてみようと思う)

 

結婚後の1年間

 

婚姻届けは東京で出した。

都会の方が外国人のダンナは仕事が探しやすいと思ったから。

 ちょうど、東北の大震災にも遭遇したダンナ。

一緒に暮らしていたルームメイトの外国人は皆避難。

東京のゲストハウスに一人残され、隣のマンションが躍るのもみたという。

こんな大変な目にあって、帰ろうと思わなかったのか?

後で聞くと「もう戻る国も場所もないから」とさらり。

 

婚姻手続きも遅れるかと思いきや、

フランス大使館の婚姻手続きを担当してくれたフランス人のエリックさんが

ダンナの友人の大学時代のクラスメイトという信じられない幸運があり

私達の結婚届けを優先的にFAXでやってくれた。

これで手続きも3カ月の観光ビザがある間に完了し、私達は何とか結婚手続きを終えた。

3カ月の間、転職活動もしたがどこかで東京というコンクリートジャングルで生きていくと思うと息苦しくて仕方がなかった。

不本意なことをやり続けてもうまくいくわけもなく私の仕事がなかなか決まらなかった。

 

私達は実家のある地方に帰る事を決意。

 

とりあえず、私だけ実家に戻り、職探し。

その間、ダンナはうちの実家には居候できないのでWWOOF

に登録し、私が仕事、家を探すまでウーファーとして滞在してもらった。

WWOOF ジャパン - ホーム

 

結婚を反対されながらも、実家から徒歩10分位の場所に

1年程住んでいたいたダンナと私。

日本語ができない外国人のダンナが地方で仕事を見つけるのは難しかった。

ダンナは日本語を勉強する日々が続いた。

車もないので、冬も40分近くかけて教室に通っていた。

教室に行くまでの道、父親に偶然あわないどろうかとびくびくしていた。

実家まで徒歩10分でいける距離なのに、ダンナは一度も実家に遊びに行くことはなかった。

 

再び都会へ

 

地方を離れる事を決意

ダンナの仕事がなかなか決まらなかった。

親との距離も相変わら一方通行。

大学時代の先輩を頼り、もう一度大きな都市に出る事にした。

 

この時一度親に報告するも、「もうかんどうだ!」と何かのテレビドラマの様なセリフを投げつけられた。

家族の縁を切るとまで言われた。

 

しばらく、私の仕事が決まるまでゲストハウス暮らし。

もうこのままゲストハウスでもいいんじゃない、と思った。

それでも○○府○○区というあまり府民は住みたがらない、ホームレスが多い区に

アパートを借りた。家賃が安いという理由で。

 

隣の家の声が丸聞こえの、日のあたらない部屋。

ねずみが天井を駆け回っていた。

ダンナの仕事も一年程決まらなかった。

とりあえずお金を貯めてこのアパートから出たかった。

毎日残業して、帰ってくると味噌汁とご飯をダンナが作ってくれていた。

一杯のかけそば、ならぬ一杯の味噌汁とご飯。

たまにふんぱつして、お魚がついてくる。

 

私の帰りが遅く、疲れてるのでフランス語を話す思考力もなく

ダンナとの会話もなくなりまるでルームメイトみたいな関係になった。

 

ダンナのいっこうに上がらない日本語力と仕事がみつからないストレスで

よくけんかしていた。

一度ものすごい勢いでダンナが家を飛び出していったことがある。

自分の居場所がないことのストレスもあったと思う。

反省した。

 

32歳 ダンナの仕事がみつかる

 
私が当時勤めていた会社のマネージャーに誘ってもらい、
都会に引っ越して1年目で仕事に就くことができた。(日本来日してちょうど3年目)
同じ職場の同じ部署。机が隣だった。
 
中卒のダンナ。
高校は行っていない。行っていない、というより行けなかった。
母親が高校に登録するのを忘れてしまったのだ。
 
家庭環境が複雑で、父親の顔も名前も知らない。
小さい頃からおばぁちゃんに育てられ、学校の行事に母親の姿はいつもなかった。
6歳までおばあちゃんが自分の本当の親だと思っていた。
常に一人だった子供時代。それゆえ、空想にふけるの好きな子供だった。
分からない事は自分で答えも探す。人に頼らない。
そうやって、無意識に育てられた様な感じがある。
 
仕事はすべてその場で見て覚えた。フランスでもそうやってやってきた。
日本でもその適応力が役にたっていることは間違いない。
 
 

34歳 ダンナ解雇勧告を受ける

 
勤めて、3年目に入ろうとしていた。
私は一カ月の有給をもらい、ダンナの家族に会いにいき日本に戻った頃のことだった。
業績悪化で外国人のダンナは解雇勧告を受けた。
日本語が上達せず、他の仕事を任せられない。
このままでは雇い続けることができない、という内容を伝えられた。
 
言葉が流暢に話せたら日本人と同じ立ち位置になれるのか?
そもそも、家族に会いに一カ月休みをもらうなんて日本社会の常識で考えたら無理な話だ。
日本の会社にバカンスという4文字はない。
長期休みが取れない日本の会社。
外国人が日本の会社で働くことの限界をすでに感じでいた。
 
ダンナも私も会社を辞めた。
辞める時に「もう日本で仕事はみつからない」とさんざん言いたい事を言われた。
 なんでそこまで言われないといけないのか、ここでもまたもやもやした気持ちになった。
私は転職先を決め、ダンナはホテルの清掃の仕事が決まった。
 
これからまた新たな気持ちで頑張ろうと思っていた矢先ある事が判明した。
 
                                 続く・・・